(前回(2008/01/08)からの続き)
今日は いよいよ、
「アラビア数学」 を主役に据えねばなるまいと思います。
ところでですね、ここで、遅ればせながら、
私が これまでの記事で使ってきた 「アラビア人」 という言葉と
「アラビア」 という言葉について、
ちょっとした 「注意書き」 をしておこうと思います。
まず、「アラビア」 という一つの国があるわけではないのです。
今日の主役となる 「アラビア人」 とは、
「7世紀初頭(610年頃、注1)以降、アラビア地域(注2)を中心として、
アラビア語を使って、アラビア文明を築いていた人々」
と、大まかに理解しておいてください。
(注1: 610年(頃)
ムハンマド(マホメット)が、イスラム教を起こした年。
このイスラム教によって アラビア半島が統一され、さらに
より広い地域にまたがるイスラム帝国(というか2大王朝)が成立し、
文化・学術が栄えることになりました。
文化・学術の隆盛期は、だいたい 9世紀(800年代)初頭
から始まり、11世紀(1000年代)あたりが黄金時代だそうです。)
(注2: アラビア地域
ほぼ 「アラビア半島」 を指してよいと思いますが、
「アラビア文明圏(科学圏)」 というと、もっと広い地域、
アラビア半島の北部 も大きく含み、東は 中央アジア、
西は アフリカ北部、イベリア半島(現スペイン、ポルトガルのある)
にまで及ぶ地域です。
要は、この広大な地域に イスラム帝国(王朝)が成立し、
そこで栄えた文明が 「アラビア文明」 であり、
学術 に共通に用いられていた言語が、「アラビア語」 であった
ということなのです。
そういえば、スペインの建築物 って アラビア風ですよね!
私、すごく好きなんですよね~。 それに、
スペインの音楽 も、どことなく アラビアっぽいのがありますね!
好きですねぇ。。。 余談ですが。)
さて、紀元4世紀(300年代)後半以降、
凄まじいまでの繁栄を誇った古代ギリシャ数学 は、
衰退の一途 をたどります。
学問や芸術などの 「文化」 が育つには、
育つに適した 「培地」 が必要ですが、
当時のヨーロッパには、
「 古代ギリシャ数学を継承して、育て上げるだけの培地がなかった
(なくなってしまった)」
ということが、結果的には言えると思います。
理由は いろいろあったでしょう。
後述しますが、主には 2つくらいの理由 が挙げられると思います。
1つは、
ギリシャ・アレクサンドリアを滅ぼして 地中海世界全域を支配し
栄え始めたローマ帝国 と、そこの人々の価値観 が、
数学(などの学問)を発展させるには 向いていなかったこと。
あれだけの大帝国が長く繁栄したのですから、
優れた文化をもっていたのでしょうが、 ( ← 注:2008/01/13 )
要は ローマ人の得意分野は、もっと違うことだったのです。
そして、あと1つは、
キリスト教の台頭です。
「 これの シバリ は、きつかった!」
キリスト教の きつすぎるシバリのために、自然科学者は
長い長~い間、さまざまな辛酸をなめることになりました (>_<)!
学問や芸術の 醸成 には、「自由」 が不可欠 なのですが ・・・。
もっとも、こういうことを 否定的に見るのは残念だ、とも
同時に思うんですね。
歴史的に既に起こってしまったことですから、「必然であった」 と、
そして、「なんらかの肯定的な意味があった」 と見るほうが、
健康にいいですし、実際 そのようにも見えます。
「冬眠の時期 が必要であったのだ」 と、そして その時期に、
「別の重要な事柄が進行していたのだ」 と、
私は、そんなふうに考えたいと思うのです。
このへんの 経過・事情 を、以下に、参考文献から “引用” して
お伝えすることにします。
* * *
(以下、『モノグラフ 数学史』(科学新興新社)62ページより“引用”)
“ 紀元5世紀の末に 西ローマ帝国は、北方ゲルマン族によって
倒されてしまった。このゲルマン族は 野蛮な民族といわれていたが、
ヨーロッパを支配してからは、順次にローマの文明をとり入れ、
農業を主とする封建社会を作っていった。そして、精神的な面では、
キリスト教が絶対的な支配権をもつようになっていった。
したがって あらゆる学問は、寺院の学校で教えられ、
一般の庶民は これに関係しなかったので、
6世紀 から11世紀 にかけての ヨーロッパの数学 は、
宗教数学、寺院数学 ともいうべき性格のものであった。
したがって当時の数学は、ローマ風の算数 と、
時日をきめるための 暦の計算 などが主なものであった。”
* * *
(以下、『数学史入門~微分積分学の成立』 佐々木力(ささき・ちから)
96ページより、微妙に表現を変えて “引用”)
“ …… その地の文化(古代ギリシャ数学)は、しかしながら、
ギリシャ語圏 においては継承されなかった。
アレクサンドリアで数学者たちが活動した場所 は ……
ムーセイオン( museum の語源。なので、学術施設 と考えてください。)
であったと考えられるが、
ムーセイオンの後継施設 は ギリシャ文明圏では建設されず、
ムハンマドが創始したイスラム教のもとに設置された。
首都 バグダード の 「知恵の館」(832頃創設)が それである。”
* * *
(以下、『はじめて読む 数学の歴史』 上垣渉(うえがき・わたる)
3~4ページより “引用”)
“ 紀元4世紀になると、古代ギリシアにおける独創的な数学研究 は
衰退 していきますが、主要な研究成果は ギリシア文明圏から
ビザンティン文明圏へ、そしてシリア文明圏へと引き継がれていきます。
さらに シリア的ヘレニズム諸科学は、アラビア語訳されて
アラビア文明圏へ移入され、アラビア学術文化の勃興の時代 が
始まることになります。
アラビア学術文化 は 11世紀 に 黄金時代 を迎えますが、
この学術文化を 今度は 西欧世界が摂取する ことになります。
それが 12世紀の西欧における 大翻訳時代 の到来であり、
一般には 「12世紀ルネッサンス」 と呼ばれます。
……(中略)……
これらの地域(12世紀ルネッサンスの中心地域)で
アラビア語文献 や ギリシア語文献 の ラテン語訳 が進められていった
のです。
これらの ラテン語訳 を通して、
西欧世界 に 学術文化の華が開花することになります。
* * *
(以下、『はじめて読む 数学の歴史』 上垣渉(うえがき・わたる)
208ページより “引用”)
“ フィボナッチ(1170~1250)は、12~13世紀 における中心的な
商業都市であり、斜塔で有名なイタリアのピサ市に生まれ、
本名を ピサ の レオナルド と言います。彼は エジプトからシリア、
ギリシア、シシリーなどを旅行し、アラビア数学を学ぶ機会を得た
のですが、そのアラビア数学が当時の中世ラテン世界でのそれよりも
はるかに優れていることを知り、その内容を伝えるために
『算盤の書』(注3)(1202年)を著したと言われています。この著作は
ヨーロッパに インド・アラビア数字 を輸入するとともに、
新しい算術 や 多くの数学的知識 を伝えたことで知られています。”
(注3: この 『算盤の書』 は、
「算盤(そろばん)」 について解説したものではなく、
その表題とは裏腹に、インド・アラビアの数学、
10進位取り記数法、その計算法 などを解説したもので、
これらは 「筆算」 と呼ばれています。
フィボナッチ以前の中世ヨーロッパでは、
計算するのに 「算盤(そろばん)」 が使われていました。しかし、
インド・アラビア由来の 「筆算」 のほうが、実用上でも、
学問上でも優れていたため、ヨーロッパでも次第に 「筆算」 が
広まることになりました。
もっとも、「筆算」 に対する抵抗には根強いものがあり、
当時のヨーロッパでは、寺院数学に固執する 「算盤派」 と、
実用性を重んじる 「筆算派」 との間で、争いまであった
ということです!
新しい概念( 「0」 および 「0を用いた10進位取り記数法」 ) が
受け入れられるには、長い時間が かかりました。
新しい概念は、いつの時代でも 「抵抗を受ける」 のですね!
肝に銘じておきたいですね!)
* * *
そして最後に、究極の引用 をいたします。
(以下、『偉大な数学者たち』 岩田義一(いわた・ぎいち)
26~29ページより “引用”)
“ …… 紀元4世紀には 数学 も 他の学問 も すっかり衰えてしまい、
その廃墟の上に キリスト教だけが さかえた。
カルタゴ、ギリシアを滅ぼして地中海世界を統一したローマは、
戦争と政治には すぐれた手腕を示したのだが、
数学 については エジプト、アッシリアのレベルを出なかった。
なるほど ローマは大きな軍用道路をひらき、水道をひき、
数万人をいれる大きな円形劇場(コロセウム)をつくったことは事実である。
……(中略)……
一体に ローマ人は 実用ばかり重んじて、数学など少しも重んじなかった。
アルキメデスにひどい目にあわされても 目が覚めなかった(注4)。
というより、まるで 数学的才能がなかったのであろう。
私たちは キケロ が アルキメデス を、
「砂とコンパスに日を送る いやしき小人」 といったのを知っている。
キケロは ローマにならぶ人なき文人、雄弁家 であり、
ギリシア文化を愛した人であった。……(中略)……
そのキケロが こんな言い方をするのであるから、
数学 については ローマは どうにもならない国であった。
アレクサンドリアの大図書館を 焼きはらい、コロセウムに
グラディアトル(剣士)と猛獣を闘わせて楽しんだローマ人は、
オリンピアやピュティアに創作、競技をきそったギリシア人の弟子
というよりも、かの残忍なアッシリア人に近いものであった。
彼らが殺したギリシア第一の数学者(注5)を理解するのに、
ローマのあとをついだ西ヨーロッパは、その後 2000年の歳月(注6)を
ついやしたのである。
もし アラビア民族 が あらわれて
ギリシアの文化を うけつがなかったとしたら、
想像もできないほどの光明をはなったギリシア文化は、
ありうべからざりしこととして、後の世には伝わらなかったかもしれない。
ギリシアの数学の発展を はばんだものは、
ローマのせまい実用主義だけではなかった。
もう1つは 狂信的なキリスト教徒であった。
イエスの福音を信ずる彼らは、異教のものも見のがすことができなかった。
たて直されたアレクサンドリアの図書館 は、
紀元4世紀テオフィロス大主教のひきいる狂信的なキリスト教徒 によって、
また 焼きはらわれてしまった。
アレクサンドリアにあらわれた最後の数学者 ヒュパティア(女)は
狂信的な人々のため 石で打ち殺され、死体を きりきざまれた。
キリスト教には このほか 別の宗派 があった。
彼らは 正統派 からは しりぞけられていたが、
彼らこそ ギリシア文化 を アラビアに伝えた人たち だった。
……(中略)……
そのころ、西の方ヨーロッパでは、ローマ帝国に侵入してきて
帝国を滅ぼしてしまったゲルマンの蛮族どもが、
しだいにキリスト教の教えに従い、少しずつ文明に向かってきていた。
11世紀 にはじまった十字軍戦争は、ヨーロッパの人々に
東方世界の文化の高さを知らせ、キリスト教への熱心をさまさせた。
ヨーロッパはそれ以後 アラビアの文化をとりいれることに熱心であった。
そして イタリアの ルネッサンス となったのである。(注7)”
(注4: ローマ軍は、アルキメデスの発明した数々の武器に、非常に
苦しめられたので、その文明の利器を生み出すもととなった学問
(数学・物理学・工学)の アリガタミ に気づいても良さそうな
ものなのに、相変わらず数学などを軽んじた。 ということです。)
(注5: アルキメデスのこと。ローマ軍の一兵士により 殺されました。
もっとも、このときのローマの将軍マルケルスは 賢明な人で、
「アルキメデスは 決して 殺すな」 と命令をくだしていた
のですが ・・・。 将軍マルケルスは、
アルキメデスの死を心から悼んで、名誉ある葬儀をいとなみ、
彼の家族に手厚い保護を与えたとのことです。)
(注6: 「2000年」 ではなく、「1000年」 のほうが納得できる気がする
のですが、私の気のせいでしょうか ・・・?)
(注7: この引用部分だけを読むと、ローマ人や キリスト教を
手厳しく批判 しているだけの印象 を受けますが、それは、
そういう部分のみを 私が抽出したから そう見えるだけの話で、
この岩田義一さんの 『偉大な数学者たち』 は、全体的に
とても優しい穏やかな文体で書かれており、学問や学者、また、
それを支えた周辺の人々に対しての 慈愛 を強く感じます。
ことに、夭折の天才数学者 アーベル と ガロア についての記述 は
じィ~ん と来ますよ! 読んでよかったなぁ。。。)
さてさて、上記4冊からの “引用” でみたとおり、
古代ギリシャ数学 は、ヨーロッパでは没落 してしまいました。
北イタリア や 北東スペイン などを中心として起こった 「12世紀
ルネサンス」 までの間、 ヨーロッパ人に代わり、
アラビア人が、数学(その他諸科学)の 「熟成・発酵」、
そして 「再編成」 を、一手に引き受けたのです。
アラビア人たちは 地の利 を生かし、
西からは ギリシャ数学 を、東からは インド数学 を取り入れて、
独自の数学(アラビア数学)を発展させることになります。
その舞台となったのが、
バグダードに設立された学術施設、「知恵の館」(832頃設立)。
そして、そこでの 重要人物 の筆頭が、
アル = フワーリズミー (780頃~850頃)。
「アル = フワーリズミー」 と 「知恵の館」、
そして 「アラビア数学」 については、
次回の記事で語ることとしましょう。。。 (^^;)。
( あれ? どうにも こうにも。。。
なんで、こういうことに なってしまうのでありましょう?
○○は 死ななきゃ治らない。。。
今日の書き始めのタイトルは 「・・・(後編)」 だったのですが、
よくよく考えた末に、「・・・(その2)」 にすることにしました。
「・・・(中編)」 という手も、あるにはあったのですが、、、。
ま、ここはひとつ、大目に見てやってください (^^;)。 )
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